ホラー?サスペンス?それともスペクタクル?ジャンルを飛び越え話題になっている本作をみなさんはもう見ただろうか。もしまだだったら、監督が「席を用意しましたのでどうぞ」(『NOPE』パンフレットから)と語る作品をぜひ映画館で見てほしい。まさに「映画体験」が散りばめられた作品だった。
これから映画をご覧になる方は、ネタバレが含まれることをご確認のうえ、お読みください。
良質な本格ホラーの前半と、心躍る後半のスペクタクル展開
予告動画などを見てホラー映画と思った人は多いだろう。筆者もその一人である。その宣伝に違わず、前半は細い糸が切れそうで切れないゾワゾワした緊張感のあるホラー演出が続く。
その不安感は、恐怖対象である未確認飛行物体の描写にも及ぶ。主人公(OJ)は未確認飛行物体を捉えようと空に目を凝らすが、風に舞う木の葉の一つを見極めようとするかのごとく掴めない。私たちは彼の動きに合わせて思わず首を動かし、スクリーンの隅から隅に視線を送ってしまう。
広大なアメリカ南部の渓谷がそのまま画面に落とし込まれ、鑑賞者はOJの立場でその巨大で未知の「何か」に対峙することができるのだ。そのスケールの大きさはそのまま、後半の展開へと繋がっていく。
牧場にいる馬の名前ごとに区切られたいくつかの章が展開するごとに、語り口は変わる。未確認飛行物体に「G-ジャン」と名付けたあたりから、鮮やかな手際でホラーから少年漫画のような「アツさ」のあるスペクタクル展開へ移行し、「G-ジャン」との関係が恐怖ではなく乗り越えるべきものになる。
私たちは最初に恐怖を、最後に興奮を、スクリーン上の演出で存分に体験することができるのだ。
なんか見たことある…いくつあった?
日本で映像エンタメを楽しんでいる者なら、デジャヴを感じるシーンが一度…いや、少なくとも二度はあったのではないだろうか。「G-ジャン」は『新世紀エヴァンゲリオン』の使徒にインスパイアされていると、パンフレットに明記されている。OJの妹、エメラルドが電動バイクでジュピター・パークに滑り込むシーンも「見たことある!」だったのではないだろうか。
筆者としては、「G-ジャン」が姿を変えジュピター・パークの上を飛び交うシーンはまさに『モスラ』だと思った。巨大な生物を見上げながら戦う、このシチュエーションがそもそも怪獣映画な上に、蝶や蛾のような形になって雲間を飛び交う姿に新しい演出の『モスラ』を見ているような興奮を覚えた。
前述したホラー要素に加え「ジャンル映画」のお馴染みをふんだんに使っていながら、それらの枠を飛び越えて一つの作品として成り立つ力がある。
随所に散りばめられた「視線」の存在
そういったいくつかの要素を含みながら、この作品の重要な主軸の一つ「視線」が全てを絶妙に結びつけている。
OJとエメラルドなど、登場人物の間で交わされる視線。未確認飛行物体「G-ジャン」が人を襲うきっかけ。そして、登場人物が関わっている「映画」「テレビ番組」「アトラクションのショー」といった見られる仕事。
それらはストーリー上何度も、だが撫でるようにさらりと登場し、私たちに「見る」「見られる」という行動を次第に意識させていく。
ドラマ収録中に暴れ出したチンパンジー「ゴーディ」とアジア系子役ジュープの存在で、鑑賞すること/されることのうっすらとした気持ち悪さを植え付ける。これらには人種、ジェンダー、職業など世の中にいくつも存在するレイヤーごとの差別を意識させる意図があるのはもちろん、エンタメとして消費する/されることの後味の悪さに繋がっていく。私たちは今まさに映画を鑑賞しているにも関わらず、だ。
しかし、それだけではない。物語の後半ではOJとエメラルドの絆、「G-ジャン」を鑑賞物として捉えることで打ち勝つなど、エンタメを消費することで得られるプラスの力で締め括られる。
私たちは映画の鑑賞者として一大スペクタクルを「見て」興奮した気持ちで映画館を後にできるだろう。だが、その興奮が「見られて消費された者」によってもたらされていることを同時に意識する。こんなにも「映画を観る」という行為について多面的に考えることがあるだろうか?
そんなどっぷりと「映画を観る/消費する」という行為を考えさせてくれる作品を、ぜひ映画館で上映しているうちに体験して欲しい。